捨てられない女

捨てられない女

ちょっとは大人になったのかしらと自分に期待してみたりして。

2022/2/28

いろいろと気がかりなことが多い日々ですが、始まりました、「オロイカソング」のお稽古。
ワールド・シアター・ラボ リーディングの「I Call My Brothers」も短いながら非常に濃い日々を過ごさせていただきましたが、今回も濃密。 今日あたりから芝居の骨格がめきっと立ち上がり始めた感覚があります。
「オロイカソング」はこれまで2度、上演延期をしてきた作品だそうで、今回から新しく参加する私にとっては、すでに座組の空気や物語の歴史が蓄積されているところに飛び込むという、ちょっと怖いけれど新鮮で面白い体験です。
公演中止・延期になるという悔しい経験はもちろんできるだけ少ないほうがいいけれど、年月を経るにつれて、俳優や演出家、作家の視点も変化していっているというのを聴くと やっぱり物語は社会との関係で変わっていく有機物なんだなぁと、長い時間をかけ作品を育てる有意義さも感じます。
ところで、三代の女性たちをめぐる「オロイカソング」をやっていると、どうしても我が家の私-母-祖母の関係を思い出します。
好き勝手暮らして家族に心配をかける私。 責任感の強い母。 優しくチャーミングでファニーな祖母。 (そして、弟。)
強情なところだけでなく、ほかにも共通点があったことを、最近発見しました。
というのも実は、母娘三代、収集癖、といいますか、「側から見たら必要なのかよくわかんないものを大事に取っておく」傾向があるようなのです。
何を集めてしまうかはもちろんそれぞれ異なります。
母のパターンは1番洗練されていて、 たとえば、もう聴くこともないだろうカセットテープやCD。 使い切って空になった香水瓶。
うん、たしかに必要はないけれど、ちょっとオシャレ。 埃をかぶった香水瓶からも、人生の色んな局面で、きっと香りが彼女を支えたのだろうことを想像させられます。
祖母の場合は可愛らしい。 目的不明の人形、キーホルダー、置物。 それに加えて物置の奥に押し込まれていた箱からは、彼女が関東に移ってから行った旅先で手にしたのだろう様々なチケットやリーフレット、紙の切れ端が出てきました。それから別の箱には、大量の写真。
私の場合は、とにかく子どものころから物を捨てるのが苦手で、 女三代の中でも飛びぬけて、みっともないくらいの収集癖がある人間でした。 旅先でもらったレシートくらいはまだしも、 何が入っていたかも思い出せないような箱、 雑誌の切り抜き、 お菓子の包み紙まで。
気に入った色や柄の包み紙や紙切れがあると、何に使うでも、見返すでもないのにとっておいてしまう。思春期のころには母から「アンタの家は将来ゴミ屋敷になりそうね」と言われたほどです。
長く使ってボロボロになった物もなんだか捨てられなくて、知り合いから粗大ゴミ引き取ったり、母が捨てようとしていた服をゴミ袋からひっくり返して取っておいたり。 両親が乗っていた車を買い換えるときにはギャン泣きしたし、 中学生のころには履き潰して穴だらけになった上履きを「買い換えなさい」と担任の先生に言われて、(必死に隠したけど)涙を流した記憶さえあります。
今思い返すと先生が仰ったことは真っ当だったし、自分が先生でもそう言うだろうと思うのだけどあのときの私には、なんというか、 「ダメになったものにさっさと見切りをつける」ことを要請してくる世界が、 凄く冷酷な場所に思えてしまって、悲しかった。のです。 10代前半を共に歩んできた上履き。いい思い出なんてたいしてない毎日。 上履きには下手くそな落書きがびっしり描き込まれ、黒ずみ、穴だらけで、靴底はほとんど本体からはがれ落ちかけていたけど、そのみすぼらしさは、 どうも自分のやり場のない怒りや悲しみや後悔を代弁してくれているような気がして、それを真っ新にしてしまうのはとてもおそろしかった。あの上履きの汚さは、勲章なんかじゃないけど、私がもがきながら生きていた証拠ではある。
たぶん、そんなことを思って私は泣いたのでした。
でも、そんなふうに傷ついた自分自体恥ずかしくって、結局上履きは新調しました。
証拠を失うさみしさに蓋をして。「大人になるんだ」と決意して。
一方で、クローゼットの箱に大切にとっていたあのさまざまなお菓子の包み紙は、今思うと 恋心なんてものが1ミリも信用できなかった当時のわたしの、「恋」の矛先だったようにも思えてきます。 愛も恋もただの作られたイデオロギー。消費を喚起するためのストーリー。国民を管理しやすいよう家族という単位にまとめあげるためのフィクション。だけど口から中にとりこんで、私をときめかせてくれたものにだけは、確信をもてる。内側と外側から寄り添ってくれるものだけは信用できる。
そんなかんじで。
沢山の物を収集して鎧をつくり、城壁をつくっていたあの頃を思い出すと、ものすごく小っ恥ずかしいけど、それはそれで当時の自分なりの「表現」だったなぁと、ちょっと最近は思います。
この頃は、できるだけ物に執着しない選択をするようになりました。それって、大人になったかんじもするけれど、ちょっとさびしい。でも同時にすごく楽になった感じもします。 いまわたしの周りにあるのは、日用品と、植物と、本と、趣味のお香と、家族の絵や写真と、そして演劇に関わるもの。とっておきたくなる小物や紙切れは勇気をもってできるだけ捨てる。さみしくて、でも同時に充足してる。孤独を栄養にしながら、壁に貼った(覚えねばならない)セリフを眺める。
完璧じゃない自分をゆるやかに受け止める。ま、あと何日かすりゃできるようになるでしょと自分を大目に見る。 明日には世界も、自分も変わってしまうかもしれないという揺らぎを、ただゆるやかに受け止めて、心と体の声を聞きつづける。
で、時々、自分の混乱した子ども時代の「箱」もノックしてみて、それをおちょくったり、それを使って音を奏でたりしながら、もっと豊かな人間になりたいと思いをめぐらす。
「痕跡」を思わせる、沢山の小道具が登場する稽古場で、愛だけ信じて、祈りながら呼吸して稽古の日々を送ろうと思います。
どうぞ穏やかな日々を。 「オロイカソング」 公演サイトhttps://henzinzin.wixsite.com/mysite/next-productions ご予約https://torioki.confetti-web.com/form/1563/8711

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