その日の午後、私は今演出で関わっている作品の小道具に使えるものはないかと、電子機器が山と積み上げられた実家の棚を漁っていた。かつて父の書斎として使われていたその小部屋には、家に置くには仰々しすぎる鈍い色のパソコンデスクと、ギーギー激しい音を鳴らすデスクチェアの隙間に、母の画材、家族のアルバム、弟が幼い頃使っていた人形、ありとあらゆる電子機器、そして用途不明な品々がぎゅうと押し込められている。
私は、錆び付いたパソコンデスクに左足、向かいに置かれた本棚に右足をひっかけて、一番奥の棚の上段に手を伸ばす。おどろおどろしい木箱を開けると、中にボタンが一つだけ入っていたり、アミューズメントパークの土産と思しい缶を開けると、ボロボロになった電源コードとゲームボーイが出てきたりする。無法地帯だ。
それでもなお「90年代を象徴する小道具小道具小道具…」と、粘り強く棚を漁っていると、高級チョコレートの箱(おそらく私が子役時代に差し入れでもらったもの)の中から、一枚の年賀状が出てきた。それは、私の祖母が彼女の姪っ子に宛てたもので、私と弟の七五三姿が印刷されていた。送ったはずの年賀状がなぜここにあるのかという疑問はさておき、私は、そこに写る5歳弱の弟、大きな大きな笑顔を浮かべる袴姿の弟、に見入ってしまった。こういう笑顔は、ここ20年見ていない。(今も笑うけどね。ちょっと照れが混じるのです)
当初の目的も忘れて、母に「こんな懐かしいものが出てきたよ」と見せて「とてもよく笑っているね?」というと、「この年齢のころはいつもこんなふうにニコニコしていたのよ」と言う。
「スタジオで着物を見せてもらったら大喜びして、一人で着物を当てて鏡の前でポーズ決めちゃったりして、すごく楽しんでいたの。彼にもこんなところがあるなんて、ってお父さんとおばあちゃんと、みんなでびっくりしたの」だそうだ。
物凄く雑な言い方をするが、ダウン症児というのは、おおむね幼い頃は周囲からかなり可愛がられる傾向がある。独特の顔つきや手足は愛らしく、外交的な子も多い。私も小さい頃弟と歩いていると、知らない大人からちやほやされるのはいつも弟のほうで、やきもちをやいていた。
しかしながら、以前にもここで触れたことがあるような気もするが、青年期のダウン症者には「退行現象」というのがあると言われている。
大学時代にとっていた福祉の授業で、「青年期のダウン症者は“明るい”感じがなくなっていったり、今までできたことができなくなっていったりするせいで、社会や家族の関心を得にくくなり、結果充分な生活環境を得られなくなってしまうケースもある」というようなことを聞いたことがある。その先生の言い方は、「ダウン症の、青年期はねぇ、難しいんですよ。」だったが。
(退行現象については、このサイトに詳しく書いてあった。思い当たることばかりだ。
上記のサイトにも書かれているように、原因はまだ解明されていないらしいが、心因性のストレスや環境の変化、家族との死別などが要因であろう、とのこと。これもまた、ナルホド、と思う。
このとこ、弟と接していて経験則的に感じるのは、(心理学とかには、まったく、基づいてないです)
彼の 潜在意識―顕在意識 、
私の 潜在意識―顕在意識 、
この、潜在意識と顕在意識を繋ぐ「―」の部分に何か蓋みたいなものがあるとすれば、それ、か、或いは
「顕在意識」の領域の「構築のされ方」が大きく違うのではないかということ。
というのも、ここ数年、私と彼の間にあった二位一体のような感覚がほどけ、一人の人間同士として彼を見ることができるようになったのだが、そのような態度で彼の様子を観察していると、どうやら本人が抑えたいと思っている感情や衝動までも、体の表面に噴き出してしまったり、彼の行動を方向付けてしまったりすることがあるように見えるのだ。
例えば、彼の自傷行為やチック、最近では彼は「よだれづわり」のようにとめどなくよだれが出てしまうのだが、周りはときにそういった現象を「アピール」と呼ぶ。大人の注意を引きたいがために、問題行動をとる、という認識だ。
もちろん、そういう側面はあるだろう。潜在意識に孤独感や愛を求める思いがあるのは間違いがない。
ただ、それを「アピール」ととらえるかどうか、という点は、私にはどうも、大きなポイントのように思える。
つまり、つぶさに彼を観察していると、彼自身そういった「アピール」と呼ばれる行動をとる自分に苦しんでいる様子もあるのだ。やめたいと思ってもやめられなかったり、体が自分の意思より先行してそうなってしまったりして、生活上の不快感や不便さを経験している。身体の主権を潜在意識に奪われてしまうような感覚だ。(たぶん。)
私は、というか、社会的マジョリティに属した人間の多くは「言語が世界を規定する」なんて言うように、言語という堅牢な城塞を顕在意識の領域に築くことで、その奥だか、下だかの牢屋に、正体不明の「怪物」(潜在意識)をおさえこんでいるような感がある。
たぶんその“言語の城塞”を「理性」と呼ぶのだろう、
言語を獲得すればするほど、潜在意識内にもまた光があたり、液状だった怪物は、やがてはっきりとしたシルエットを成したり、扱いやすい子犬に変化したりして、潜在意識内を楽しく遊びまわるようになることもある。
ただ、この構造、弟を見ているとどうやらぜんぜんちがうらしいのだ。
まず、弟の場合、「世界は言語で認識すべし」という固定観念が、おそらくない。
もちろん、会話も歌も楽しむし、大好きな友達相手にはかなり饒舌になるのだが、
例えば私みたいに本を読んで新しい言葉に出会ってワクワクしたり、人と議論を楽しんだり、という趣味はないのは確かで、
寧ろ「今の自分の感情の立ち位置」を、時に言葉、時に己のありよう(波動みたいなもの?)を通して、相手と交換している感じがする。かんじ・・感じって。なんの理屈もない言葉だけども。
私ほど、彼にとって言語というものの重要性は高くないのだ。
と、考えると、例えば彼の顕在意識という領域がメタバース上にあったとしたら、
多分「言語」は、要塞みたいな形はしていない。
きっともっと、ピンクの綿あめみたいな形で、「言語」はその領域をたのしく漂っている。
他にも、青い綿あめの「音楽」があったり、黄色いうさぎの「記憶」もいたりして、そういうのは、ピンクの綿あめの「言語」と、ほどほどに関わり合いつつ共存している。どれが優勢になる、ということもなく。
(ちなみに私の顕在意識がメタバース上にあるとしたら、白銀の城塞の「言語」がどどんと立っている気がする)
と、ここまで書いて思う。
「あなたの顕在意識がどうなってるか、絵で描いてみて。」と言ったら、それこそ千差万別だろうと。
「言語」の灯台があって、高いところから遠くまで見渡せて、潜在意識―顕在意識の蓋がきちんと丁寧に磨かれていて、必要なときだけ上手に開け閉めできる人もいる。
混沌とした「言語」と「情報」の嵐が渦巻く顕在意識をかき分けたところに、忘れ去られたマンホールみたいな蓋がある、という人もいる。
かと思えば、「言語」はかわいい綿あめか、パックみたいな妖精の形をしていて、ほかのいろんなものたちに対し偉い態度をとることもなく、好き勝手遊び回っているような人もいるのだ。
昨年夏、国連が日本政府に障害のある子どものインクルーシブ教育をするよう勧告を出した。
子どものころから、さまざまな人がありのまま共にいる、という環境を作るという方針には大賛成だ。ただ、上記の記事にもあるように「場を共にするだけでなく、活動に参加するために必要な合理的配慮や環境整備がなされることが大切」なのであって、この国の教育現場がそのことを優先的に整えていけるか?ということは、“緊張感を持って注視”しなければならない点であろうと感じている。
私の弟が小学生の頃、特別支援級の先生の人数は年々少なくなっていった。予算のせいだ。
インクルーシブ教育をとるならば、30人に一人の教師ではまずムリ。目が行き届かないのに形だけ“海外へのアピール”で「インクルーシブ」されたところで、適切なサポートを得られず、その子のストレスが強まったり、孤独を感じたり、あるいは怪我をすることだって有り得る。
そういうわけで、私個人の理想としては生徒8~10人に先生一人。で、先生の給料ももっと高くないとね!
冒頭にも触れましたが、今ミュージカルの演出をしております。
イッツフォーリーズという老舗ミュージカル劇団の46期新人公演です。
面白い作品になると思いますよ。ぜひお越しくださいませ。