祖母の命日である。
自由業者とは思えないほど規則正しい生活を営み、日々機嫌良く過ごすことにかけてだけは自信のある私が、その日が近づくにつれ何と言うか、地に足のついた感じがしなくなり、焦りというか、視野が狭くなるというか、自分でも掴みがたい、妙な心地に包まれていた。
バカンスで訪れたスペインのオレンジ畑(行ったことないけど)で、強く輝く太陽を憎むような、雨のあと晴れ切った庭に出たら、ほったらかしにしていた空の植木鉢に蟻が浮いていたのを見つけたときのような、そんな感覚。
腹立たしいほど世界が愛おしくて、燃える夕暮れを見ながら一人で裏道を歩いているうちレンガを窓ガラスに投げつけたくなる、手洗いに入って何時間もこもったまま、歌ってでもいたくなる、怒りとも寂寥とも違う、そんな初めての感覚だった。
多分、いろいろ外に出した方がいいものがあるんだろうなと思うので、今日は恥ずかしげもなく吐きだしてみたいと思う。
喪って初めて親族の大切さに気付くというのは多くの人が辿る道で、私も月並みに祖母の死の後、自分の身体がこの世に出てくるまで母や祖母が歩んだ道がどんなものだったか知りたくなった。
コロナ禍の葬式、参列者は娘である私の母と、孫である私、弟の3人。こじんまりとした式だ。打合せで私自身が伝えた祖母の人柄を、葬儀屋の美しい女性が、誰に聞かせるともなく紡いでく。知らないことが多すぎる。納骨で訪れた母と祖母の故郷では、私はおろしたての雑巾みたいに、祖母と母の物語を母から吸い込んでいった。社会問題を地で行くファミリー、と言うと大袈裟だが、後期高齢者の祖母、シングルマザーで非正規雇用の母、“障害者”の弟、未婚自由業子どもを産む気のない娘という女3人男1人身を寄せ合って生きてきた自分たちの狭い世界で、よもや自分にも日本の親戚がいるなんて(知っていたはずなのだが)認識していなかった。
ひつまぶしの美味い街で新幹線を下り、小雨の中少女のような軽い足取りで進む母の背中を必死で追いかける。母の同級生が継いだであろうクリニック、新聞屋、東京まで進出してきて祖母が愛用したご当地ドラッグストア、祖母と喧嘩をした祖父がお針子さんを引き連れて行っていたというストリップ小屋、今もあるものと、記憶の中だけにあるものを案内してもらいながら、私たちは母の生家にたどり着く。ここで祖母は、母と、それから母の亡くなったきょうだい達を産んだのだ。
物心ついてから、声も性格もそっくりの私・母・祖母の3人の女たちが、優しく「女らしく」慈しみ合ったことなんて、多分ほとんどなかった。でも祖母は体の小ささとは比にならないほどデカい懐の持ち主で、都合のいい時だけ甘える私のワガママを、ほぼ100%聴いてくれた。かなりスピリチュアルな人で、無神論者である私の母をのけ者に、私と祖母はしょっちゅう占いの話で盛り上がった。かつて入院した祖母に手相の本をあげると「おばあちゃんの手相、一生家事をやり続けるって出てるからやんなっちゃった」と言っていた。その本は、私が読みたかったので、あげたくせに自分で回収して帰ってきてしまった。
年若い友達が沢山居て、(それでなくても出先で次々色んな人に話しかけて友達を作ってかえってくるのだが)旅行に行ったり、噂話に花を咲かせたり、いかに生きるべきか、ウブな少女みたいに真剣に語りあったりしていた。若い頃は洋裁屋、それからクリーニング屋のお直しの下請け、ビーズ作りやハーモニカ、手芸の先生など、手先の器用な祖母は90代になるくらいまでかなりアクティブだった。私も母も祖母もそれぞれにやりたいこと、夢中になっていることがあったから、あまり互いに干渉し合うこともなかった。
干渉しなくちゃ、感じていること、吐きだせないことを、共有しなくちゃ、と思った頃にはコロナ禍の緊急入院、それから施設入所となり(その間に母と祖母二人きりの介護の日々があったが、私は不義理のし通し)、面会もほとんどできぬまま日々が過ぎ、ターミナル医療となり、祖母とやっと久しぶりに話せたときには、彼女のろうそくの火は、あまりに細くなっていた。
箱根のFホテルのレーズンアップルパイが死ぬ前にもう一度食べたいと(死ぬ気配なんてちっともないころに)繰り返し言っていたので(ちなみに祖母は30代のころからもうすぐ自分は死ぬと言い続けていたらしい)、久しぶりの面会ではどこのでもいいからアップルパイを食べさせてあげたかった。でも、どこのケーキ屋を探しても置いてない。仕方なくコンビニのアップルパイ風パフェを持っていき、一番上のクリームとクランチの部分を少しだけスプーンに掬って食べさしてやると、「こんなふうになっちゃったのぉ」と残念がっていた。
祖母が亡くなってからほんの数日後、私は自宅のすぐ近くに、それなりに有名な某アップルパイ屋があったことを知った。なぜ、こんなに近くにあったのに気付かなかったのか。今まで何度も、「なんかここ、良い匂いするなぁ。お菓子屋かなぁ」と思っていたのに。
私が20代のころ、祖母からはいくつか興味深い若いころの話を聞いた。
自分のきょうだいには、村一番の美人といわれた人と、村一番の不細工といわれた人が両方いたとか。祖父と結婚する前自分に言い寄ってきた人は、一度は良い男と思ったけど終戦後もダサい軍靴を履いていたから幻滅してやめてしまったとか。でもどれも、祖母の記憶の悪戯や私の記憶の悪戯が混ざり合ってどんどん膨らんで、正確なエピソードがどんなものだったか、多分誰も分からない。そういえば、祖母が記憶をもとに語っていたアップルパイだって、そう、アップルパイではなく「レーズンパイ」だったような気がする。レーズンがこれでもかというほど、上にも、中にも詰め込まれたパイ。でも、そんなもの、聞いたことがない。
亡くなった際初めて開いたある木箱の中には大量の写真が入っていて、母の結婚式で訪れたサンフランシスコではしゃぐ祖母や、甥っ子の結婚式で誇らしそうにスピーチする祖母の姿があった。彼女が何を聴衆に語ったのか、夫亡き後行ったサンフランシスコのホテルの部屋で、彼女は女友達に何を打ち明けたのか、その手触りは、演劇脳を使って幻想を膨らますことしか私にはできないのだ。
特別美しかったわけでも、何か野望や自由を求めて生きていたわけでも、多分なかった。大切な人があまりにも大勢自分より先に逝った彼女は、ずっとずっと、迎えを待ち続けていた。そう多分、30代の頃から。
祖母が亡くなった前日はスーパームーンで、1年で最も月が地球に近づいた日だった。夜空を見上げながら、どうか連れていかないでと私は願った。でも、月は連れていく気だよと大きな笑顔を見せた。翌日、5月にしては珍しいほど冷え込み、刺さるような雨が降り続いて私の靴には沁みができた。小さい折り畳み傘をしっかり掴み、母と二人分のコーヒーを買いに行ってから、私たちは、亡骸の前で、葬儀屋の到着を何時間も待ち続けた。
数日後の葬儀の日にもまた雨が降り、実家では初めて雨漏りがした。雨音の中で祖母の声が木霊する感覚がしていた。弟が、祖母の残した留守電の録音を何度も流していた。
一周忌、今度は祖母の生家を訪れようということになり、母と二人でまたひつまぶしの街へ行った。たまたま開いた新聞ですぐ近くの公園で薔薇が見ごろとの記事を見つけ、生家への道中立ち寄ると、立ち込める甘い匂いが私たちを出迎えた。庭師の気概を感じるパワフルな薔薇たちの園では、どこを歩いていても祖母の娘の一人が入院していたという病院が見えた。
祖母の生家は、今ははとこの営む喫茶店になっている。「19歳のジェイコブ」にでも出てきそうなピンク電話の置いてある、アジのあるのお店。その日、サプライズで何人もの「親戚」が集合してくれた。「初めまして」と私が挨拶すると、この祖母の甥っ子や姪っ子たちはしかし、祖母からよく電話で私の“出演情報”を聞いていたそうで、「相棒何度も見ましたよ」と返された。自分の大好きな人は、自分の大好きな他の人も、きっと大好きになってくれる、そんな祖母の図々しい愛にまたやられた。そんなんなら、私の一人芝居も、お祖母ちゃん役の芝居も、見てもらいたかったよ。ある時から、劇場まで電車乗って行くのが恐いと言ってきてくれなくなっちゃったけど。二時間ドラマ好きの彼女にとっては、サスペンスに出てる私こそ、誇らしかったのかもしれないけれど。しかし、身体のなくなった今だからこそ、どの劇場にも来てくれているような感覚がある。だってほら、はとこの店の壁にはでかでかと「Little words of love」という言葉が刻まれ、その前で撮った母の写真は、びっくりするほど美しかった。
祖母が深く愛でていたという実家の庭の牡丹の花は、去年も、今年も咲かなかった。
恋人が逝って咲く気が失せたのではなく、新天地(もしかしたら月かもしれない)に祖母が連れて行ってくれたのなら良いなと私と母は願う。干渉し合わない、頑固な女3人の私達は、要は裏を返せば3人とも、純真な、少女みたいな愛の持ち主たちなのだから。それくらい無邪気なことを願ったって、罰は当たらないだろう。
ところで、一周忌の旅の間中、母が何度も「私の身体にお祖母ちゃんが憑りついている」と言っていた。
「私には感受性が一切ない」と言い放つウルトラ現実主義者の母が何言っとんのじゃ、と思ったがなるほど確かに、どうも腸の具合が祖母にそっくりになってきているようである。
亡くなった人はニオイで生者に語り掛けるというが、これもそのワザの一つかね。