「ルーティン」という言葉。
私が初めて出会ったのは、子どもの頃通っていたECCジュニアの授業だったので、多分小学生か中学生くらいのころ。「日頃繰り返す習慣」を指す単語として学んだのが最初だったのですが、2015年に一世を風靡して以来一般化した言葉なので、まだ新鮮味を持って使う方も多いかもしれません。
「ルーティン」。数少ない私の経験知で言うと、どうやら「好ましいもの」という意味で使う人、「好ましくないもの」という意味で使う人と半々くらいいる様子。
「好ましいもの」の意味の場合は、たとえば毎日自己研鑽のために行う活動や訓練、その人の美的感覚に基づいた嗜みや習慣を指している印象。
たとえば、「本を毎日〇ページ読む」とか、「毎朝ヨガとジョギングをやる」とか。
「好ましくないもの」を指すときは、例えば上記と同じ中身の習慣だったとしても、「縛られている」という要素が入ってくるような印象です。「本を〇ページ読まないと落ち着けないらしい」「毎朝ヨガをやらないと気が済まないらしい」みたいな。
もちろん、第三者が誰かのルーティンを評するなんてお門違いもいいところなので、そういう人には「知ったことか」と言えばいいと思います。
が、わたし個人の感覚は「知ったことか」を超えていて、
「ルーティン。いいじゃん。大いに縛られていこうぜ。というか、私を縛ってくれよルーティン」という、いわばルーティンお化け(ECC的に言うならRoutine Monster)だということに最近気付きました。
もちろん、私が日頃繰り返しているルーティンにはそれぞれ始まった所以があります。
ヨガをやるのは、体調が不安定で毎月風邪をひいていた20代に始めてみたら、体調が安定したから。前倒しで早め早めに行動するのは、10代の頃大事な用事に遅刻して痛い目を見たことがあったから。朝食が基本的にはほぼ毎日同じメニューなのは、幼少期朝食を用意するのが父親の毎日の仕事で、大概それが毎度同じメニューで、それが未だに恋しいときっとどこかで思っているから。(平日はシリアル、土日はワッフルか、パンケーキか、フレンチトースト。平日、ごくまれにホットミルクを出してくれた。)
要は、「これがあるから・これをやったから大丈夫」という安心材料、自分の肉体や心に確信を持つための道具、地に足をつけるための道具。
繰り返し、蓄積していくことで自分の助けになったという経験がこれまでにいっぱいあるし、これからもそういう経験をするだろうと思っているから、ルーティン、大好きなんですね。
ただ、私の身近にはちょっともう、そういうレベルを超えた、
ルーティン発明の神みたいな人がいます。
そう、我が弟、ジンくんです。(ババーン)
彼がこれまでの人生で発明し、ある一定の期間習慣化し、ある時から飽きて(?)捨てていった様々なルーティン。それを数え上げたらキリがありません。多分100種類くらいあるんじゃないかね。
私が関心を持っていつもtweetを拝見している、「特別支援学校の先生」の平熱さんという方がいるのですが、その方の最近の発信がこちら。
わたしの弟くんの場合、意識と無意識のハザマでやっている(ように見える)行動が多く、自閉症を持つ子の無意識の「常道行動」とはちがうのかもしれないのですが、その行動のおかげで本人が落ち着いたり、たのしんだりしている、というのは共通したものを感じます。(なんならわたしのルーティンも。)
弟くん、10代突入前のころのルーティンは、上半身を前後に揺らす、というもの。
時々、足を前後に軽く開いての体重移動も入る。これはしばらく、10代中盤くらいまで続いていた気がします。
10代半ばのルーティンは、少しだけ前景姿勢になり、腹筋に力を入れて、腹をベコベコ膨らませたり凹ませたりする。これは食事前に必ずやっていました。(自家発電腹筋マシーンみたいなものなので、すごいダイエット効果もあったようだった。)
20代前半は、ある場所に到着した途端に歩行が1ミリ単位で進むようになる、スーパースローモーションおよび、歩行中ときおり立ち止まって片方のを膝から後ろへちょびっと跳ね上げる愛らしいステップ。
最近始まったのは、食事に同席している人が全員食べ終わってから食べ始める、というのと、ユーモラスだけどどこか恐ろしい雰囲気も漂う、道化師みたいな引き笑い。
小さい頃はじまって、今でもときどき思い出したようにやるのは、そこには存在しない携帯電話を持って、架空の誰かと電話で話す、イマジネーティブ・テレフォン・ミーティング。この携帯電話、昔ガラケーだったんだけど、最近スマホになりました。確実に。(動作が細かくて明確だから手に取るように分かる)
ここに挙げた以外にも本当にさまざまあって、しかもその動作の質感が幅広いので、どこから湧いてくるんだろう?と本当に不思議になります。想像力・創造力が無限すぎてマジで羨ましい。
もちろん、本人が嬉々としてやっているものに限らず、日常生活に支障が出たり、本人や周りも困ってしまうタイプのものだと「どうしたものか!」と頭を抱えもするのですが、
最近はこの幅の広さと、本人の無意識なり体なりが、納得し尽くすところまでやったらそのうち終わること・そして多分また次の新しいルーティンの発明が起きることが分かったので、少しゆとりを持って構えるようになってきました。
子どもの頃はね、姉ちゃん、「そんなんやめて!」って言ってましたよ。弟に。「バスの中でびっくりされちゃうよ!」とか。ごめんね弟。
そのあとは逆に、「コントロールできないんだね。憑りつかれたみたいな感覚なのかな、しんどくて可哀想」「本人だってやりたくてやってるわけじゃないよね」とか。
要するに、人間の身体・意識・心を、コントロールできるもの/コントロールできないもの
の二項対立でとらえていたんですな。
でも最近弟くんと共に過ごしていて思う・感じるのは、人間の動作なり行動なりが起こる出発点となるのは、
思考⇔体の相互作用やせめぎ合いだけではなく、
もうちょっと第三の、なんとも言葉に言い表しようのない、「なんかそういうふうになっちゃう」という存在が主導権を握ることがあるなぁってことです。
そういえば、大好きなある演出家が”中動態”の話をいつかしてらしたけど、それもこのことなのかもしらん。(中動態についてはこちらの記事が詳しく解説してらっしゃるぜ↓)
(中動態でgoogle検索したら、中動態とケアについての記事が出てきたんでびっくりしたんだぜ↓)
そういうことを思うようになったら、「弟くんを守らなきゃ!」と思っていた10代の頃の私に教えてあげたい、と思ったし、もしかして、将来「ケア」を担うように自分がなったとき、少しラクに思える部分があるんじゃないかなぁと思いました。
そして、「ルーティン」に縛られる自分も、縛られるっちゅうか、なんかよく分かんないけどそうなっちゃうという存在が主導権握ってるだけ、と思うようになったり。だったらとことん、その存在が納得するまで体にやらせてあげたらいいんですよね。たぶん。
繰り返し同じことをやっていると、ふとその中にいつもと違う何かが生じたとき、いち早くそれに気付けるというメリットもあります。
今日腰痛いな、昨日無理したか。今日やたら人多いな、今日土曜日か。今日ここ良い匂いするな、春か。
先日、いつものルーティンで朝のヨガ後にコンビニにラテを買いに行ったら、道端にバラバラに千切れた本が散らばっていました。
ウンザリするくらい小さい字で書かれたぶっとい本だったようなので読みはしなかったけど、多分、誰それ作品集みたいな本だったんだと思います。そしたら、小さい頃よく行った公園に、しょっちゅうバラバラに千切れたエロ本が落ちていたことを思い出しました。なんか、小さい頃、よくバラバラに千切れたエロ本落ちてませんでした?わざわざバラバラに千切ってしかもよく見えるように、子どもの集まる公園に落ちてましたよね?あれなんだったんだろう。
嗚呼これも、ルーティンのおかげでよみがえった原風景のひとつ。
さて、こちらの「万里紗のこばなし」宛に、読者さんからご質問いただきました。
そんな機能もあったことに気付かず、反応が遅くなってしまってごめんなさい。
次回は、いただいたご質問に回答させていただきたく思っております。
おたのしみに♡
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